研究室を揺るがす一大事
筆者の所属する研究室は、ICRFの中の一研究室である。ICRFの本部は、ちょうどロンドンの真ん中、ホルボーンという駅の近くにある。
このホルボーンという地名を聞いて、いやな気分になった人は、ロンドンに長く滞在したことがある人であろう。なぜなら、ここには、警察署があるからである。もちろん、ロンドンに長くいるとブタ箱に入れられてしまう確率が高い、なんていう理由でホルボーンを嫌うのではない。ロンドンに長期滞在する日本人は、警察に出頭する義務があるからである。
筆者も当然のことながら、入国と同時に出頭し、警察に在英の登録をすると共に、登録証をもらった。いや、買った。有料なのである。この登録を必要とされる人々は、日本人と中国人と言われている。なぜ、必要なのかは定かでないが、警察に登録されるのは、まっとうな生活をしていると思っている筆者でもいい気分はしない。
さて、それはさておき、ICRFの本部はホルボーンである。しかしながら、筆者の所属するMedical Oncologyは、そこから歩いて30分ほど離れたSt. Bartholomew's Hospital内にある。理由は知らないが、臨床と密接に関連した研究であるということが、主たる理由と思われる。
ちなみに、このSt. Bartholomew's Hospitalの名を聞いてピンと来た方は、相当鋭い人である。なぜって、日本人にとって2つの意味で有名だからである。
1つは、1987年11月18日のキングスクロス駅大火災の被災者が運びこまれた病院のであるということだ。当時、ロンドンの地下鉄のエスカレーターが木製であったことを報じたニュースを記憶している方もいるに違いない。参考までに、今でも木製のエスカレーターが動いている駅もある。観光客が行くと思われる場所では、St. Paul駅がその代表であろう。
もう1つは、なんとシャーロック・ホームズの働いていた、いや働いていたという設定になっていた病院なのである。彼は、知人の紹介により、ここでワトソン君と出会うことになるのである(ちなみに彼は医者ではなく、研究員であったという。とすると、筆者はシャーロック・ホームズの後輩になるだ)。
話が一向に進まない。ここまで書いてきた話は、今日の話とは一切関係がない。唯一、病院内に研究室があるということだけを理解しておいてほしかったのである。
さて、それで何が起こったのかというと、研究室の大ボス・Andrew Listerが、突然こう言ったのである。
「クリスマスパーティの後、セミナーをする」
もちろん、ブーイングの嵐である。しかし、彼は一回言いだしたら、てこでも動かない。多くの人は、泣く泣く受け入れることにした。受け入れなかった人はどうしたかというと、パーティの後、トンずらしたのである。その人達がその後どうなるのかは、筆者の知るところではない。
しかし、問題はそんなことではない。彼は言葉を続けた。
「研究所内には、病院で働く医師も大勢いる。その人達はクリスマスといえども休みを取ることはできない。確かにICRFの規定によると、クリスマス以後1月1日まではボーナス休暇ということになっているが、それは同じ研究室で働く医師たちとの公平さを欠く規定である。よって、ボーナス休暇をキャンセルしなさい」
パーティの後のセミナーならともかく、休暇の取り消し命令に反発しない英国人がいないはずがない。反発しないのは、働き者の日本人ぐらいである。筆者は、密かにほくそ笑んだ口である。これを口実に、年末も家を脱出して研究所にこもることができるぞと思ったからである。もちろん、実験するかどうかは別問題であるが(実は、嫁さんには休暇キャンセル命令の話だけして、それに従わない人がいる、いや誰も従わないということは伏せてある)。
それはさておき、誰一人として命令を聞かなかったのは言うまでもない。研究室を揺るがす大事件は、いとも簡単に解決を見たのである。誰も従わないという方法で。
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